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自分、無粋ですから

それを言っちゃあおしめえよ。

女性研修医が電車内で急病人を救う事が諸手を挙げて美談であるとされる社会の仕組み

無粋 社会

やっかんでるのは置いとくとして、これは本当に美談なのだろうか?


もちろん、そんなことを考えない方が正しい。それは、いつもいつも言っていることだ。しかし、考え始めればこうなる。


AEDとは、本来は医者などの専門家がいなくても特定の職や場の責任者または管理者でなくても一般市民すべてが誰でも救命医療の初動を担える物として登場した物。この原則に従えば、時間や労力を犠牲にする人の順位付けの差はない。医療関係者もこの例で言えば鉄道関係者もそれ以外の人も平等なのだ。

だが、この例では鉄道関係者は鉄道を動かす行為に代役がいないのだから当然別にして(業務拘束時間内でもある)、研修医は一人時間という身銭を切った。犠牲者にも等しい。

これが医療関係者だからという目を含んで讃美されることは、間違いなく責任の丸投げ体質そのものだ。原則で言えば

  • その場にいて
  • 他人の命は大事であるという気持ちを持っていて
  • 一番暇

な職業を特定しない誰が行うものであった。彼女は暇ではなかっただろう。

別にこれはそうだったという断定を勝手にしたい訳ではない。たまたまそうなったかもしれない。しかし、これをある種の可能性として脅迫概念にも誓い職業病と経験の浅さからくる勢いで「社会的に行わされた」とも見て取れる訳だ。


他人の命は大事であるという気持ちを持っているのであれば、彼女に救命行為を行わせてしまったこと、またはその場に居たのでなければ医療従事者に丸投げする自らをを恥じ、次に自分がその光景に出くわした時にやるべきことを考えるのだ。


これは、何もしなかった者を非難するものではない。できないものはできないし、もしもやっても船を山に登らせる様なものであれば、手を貸したりやったりしてはいけない。それを分かって無関心でいた人も冷たい人ではない。全て非難の対象ではない。
そこを勘違いしてもいけない。