読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

自分、無粋ですから

それを言っちゃあおしめえよ。

ロリコン表現規制への動きについて

日本における表現の自由の象徴が、エロ同人を自由に出せる権利があることだとしても、欧米の倫理観がスタンダードになっていくにつれて、特にロリ表現については困難になっていくだろう。現にそういう現象もある。孤軍奮闘にも近い赤松氏の活動も、やがてどこかでクソみたいな放火に遭って守ろうとしていたはずの者達からも石をぶつけられる様になる未来がくる可能性は低くはない。誰だっけ、あったね、誰とは言わんが。

これはどういう事かと言うと、推定無罪の原則が直感的な感情には合致しないから、という範囲の話の内にある。

推定無罪の原則から善良な市民の安全と平和を守るには(?)、有罪の範囲を広げるのが効果的で、より大きな罪を犯す可能性を示唆する行動を有罪にしていけばよい。要するに従来なら推定でしか有罪でなかったものを有罪と定めるということである。そう決めてしまえば、推定では無罪になるという理不尽がなくなり、多くの人間の感情を大事にすることができる。

そうやって、推定有罪に正当性を持たせるのだ。法で決まってしまえば第一義になる法治の原則論に従えば、簡単に逆らう事は難しい。
これは、何も新しい事ではない。とっくの昔に「道路交通法」はこの方法を全世界的に採用している。あまりにもみんなにとって当たり前過ぎて、疑義を持つ事が社会性の欠如とされてしまう程だが、それっぽいデータをくっつけて正当性があるとしてしまえば、この様な当初の目的からかなり外れた法が運用できるという、すばらしい例である。

命が代償にならないというのはあるが、特定表現の規制については命の次に(世界の一般的には)重要視される宗教の教義に絡む部分であるため、この様な運用をする法が出てきてもおかしくはない。ほとんど誰も痛まないし、データもいいように出せるからだ。

昔はよかった。